野口遵(のぐちしたがう)略歴
日本経済新聞-20世紀日本の経済人61飛翔編(2000年3月6日)-より
「おれの全財産はどのぐらいあるか」。1940年(昭和15年)2月、野口が京城(現ソウル)で病に倒れたとき、側近をまくら元に呼んで調べさせた後、こう語ったという。
「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ。そこでおれに一つの考えがある。自分は結局、化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい」
こうして私財3000万円(現在の価値で約300億円)のうち、2500万円で化学工業を調査研究するための「財団法人野口研究所」が設立され、500万円を朝鮮総督府に寄付して「朝鮮奨学会」の原資とした。日本にも古今、富豪と呼ばれる人は数多いが、全財産を投げ出してまで社会貢献を志した例は、あまりないのではなかろうか。
野口研究所は戦前、アセチレンやイオン交換樹脂の製造と利用といった分野で業績を上げ、戦後も木材化学やプラスチックの研究、森林資源開発の調査などで多くの寄与をしている。
「野口の行動には、戦時中の植民地主義のにおいが全くなく、すがすがしささえ感じる。それは金銭に恬淡とし、純粋な開拓精神に突き動かされていたからではないか」(野口研究所理事の藤本透-2000年3月当時)
朝鮮奨学会代表理事の権碩鳳も、「朝鮮で事業を展開しているうちに、郷土愛のようなものが芽生えたようだ。興南に本籍を移し、自ら唯一の住所としたのもその表れ」と分析する。
野口の理念や情愛によって生まれたといえる朝鮮奨学会は、いまも朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)籍と韓国籍の理事が同数ずつで構成、南北の人間が机を並べて仕事をしている団体だ。これまでに4万人近い奨学生を送り出した実績を持つ。
「個人の所属や思想、信条にかかわらず一致協力して奨学事業を推進していきたい。それが国家や民族を超えて事業を追求した、野口の遺志を継ぐことにもつながる」(権)という。
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