公益財団法人野口研究所

研究概要・成果Outline / Result

糖質・糖鎖研究の軌跡

 野口研究所における糖質研究のルーツは、第二次大戦終了後に開始した木材化学研究、1970年代に実施したバイオマス研究にあります。これらの研究をベースに、1986年に糖質合成の研究を「有機合成的手法による生理活性のある複合糖質の研究」へと方向付けました(野口研究所時報 第29号 P.5 1986)。すなわち、糖質が生体内で生命現象をつかさどるきわめて重要な物質でありながら、その特異な構造のために合成が難しい点に着目し、複雑な複合糖鎖の構築技術を研究所の固有技術として蓄積することを目指したのです。これは、今日の糖鎖バイオロジーの発展、糖鎖医薬などの応用分野への展開を見越したもので、先見性のある方向付けであったと自負しています。以下に野口研究所における糖質・糖鎖研究のこれまでのトピックスを振り返ってみます。

1980年代後半

1. シアル酸の合成

 単糖ながら生体内生命現象に深く関わりがあり、当時はその合成手段が未開発であったシアル酸の合成を視野に、まずその関連化合物である炭素の一つ少ないKDO(2-ケト-3-デオキシオクトン酸)の合成に成功しました。このテーマは、目的物であるシアル酸の生物的手法による試薬レベルの合成技術がその後開発されたため、KDOの合成で終了しましたが、この研究の過程で生み出された新反応は、a)立体選択的α、βヘテロ置換ビルディングブロックの構築、b)アラビノースからのフラノシド環の構築、c)糖ヌクレオシドの立体選択的合成、という大きなテーマに繋がりました。

2. スフィンゴシンおよび糖アスパラギンの合成法の開発

 複合糖質合成の基本は、糖とアグリコンの結合部の構築にあります。この新しい構築法の開発をターゲットとし、糖脂質の代表、スフィンゴ糖脂質の特徴的接合点であるスフィンゴシンの合成と、糖タンパク質の重要成分、N-結合型糖タンパク質の結合点である糖アスパラギンの合成を開始し、糖鎖構築の基本となるグリコシル化反応の開発を行いました。

1990年代

3. 固相合成法による糖ペプチド合成技術の開発(旧科学技術庁「糖鎖の構造・機能解析のための共通基盤技術の開発に関する研究」プロジェクト)

 糖鎖工学は1980年代後半からポストゲノム時代の生化学分野のターゲットとして世界的に注目を浴び、日本では4省庁(旧科技、通産、文部、農水)の糖鎖工学プロジェクトが1990年に発足しました。野口研究所も、1991年にスタートした旧科学技術庁「糖鎖の構造・機能解析のための共通基盤技術の開発に関する研究」プロジェクトに6年間参加しました。
 このプロジェクトでは、アスパラギンで糖に結合しているN-結合型糖タンパク質の基本構造であるN-アセチルグルコサミン(GlcNAc)とアスパラギン(Asn)の結合部分を合成し、このAsn-GlcNAcを基点にアミノ酸を順次連結して、GlcNAc1個を有する糖ペプチドを固相法で合成するテーマを担当しました。この研究において、アスパラギン酸とGlcNAcアジドを低温でホスフィンと反応させる効率的なAsn-GlcNAc合成法の開発に成功しました。さらに、これらを活用して各種の生理活性ペプチドに糖を付加した化合物、すなわちhCGの部分構造のGlcNAc-ヘキサペプチド、ペプチドTのGlcNAc-オクタペプチドおよび32アミノ酸よりなるGlcNAc-カルシトニン等の合成を行うと共に、糖鎖を付加したために起こる反応性の変化、酵素分解に対する抵抗性などを解明しました。このプロジェクトは1996年に高い最終評価を得て終了し、この仕事は後述の酵素法の開発によりペプチドに結合した1残基のGlcNAcにN-結合型の天然糖鎖を導入する方法に発展しました。

4. 不斉選択的反応とキラルブロックの合成

 KDO合成の過程で生み出された合成技術は、医薬として重要な酵素阻害剤の基本骨格の構築に利用できるβ、γ不飽和ケトエステルからの立体選択的不斉合成でsyn-βアミノ-α-ヒドロキシ酸を合成するルートを確立しました。この反応を駆使してレニン阻害剤、アンジオテンシン変換酵素阻害剤の部分構造の合成に成功し、ノルスタチン、ロイヒスチンの全合成へと繋がりました。
 同様にKDO骨格を構築する段階で見出されたキラルなテトラヒドロフラン環構築法はこの骨格を持つ海洋天然物の合成に活用され、クマウシン、ローレネニン、ゴニオフフロンなどの全合成に繋がりました。さらに、この方法を応用するとデオキシヌクレオシドの合成が可能になることを見出し、一連のAZT(アジドチミジン:第一世代抗エイズ薬)類縁体の合成を行い、核酸塩基をβ選択的に糖に導入する分子内N-グリコシル化法を開発しました。合成した化合物を米国NIHの評価に供しました。(野口研究所時報 第41号 P.9 1998)

5. 化学酵素法による複合糖質の合成

 1994年に、従来の純合成的手法に加えて糖の多様な反応基点であるヒドロキシ基の保護などを必要としない酵素法を糖ペプチドの合成に応用することとし、京都大学と共同研究を開始しました。その結果、先述のGlcNAc基を有するペプチドなどの基質に、保護基を導入することなく、6から10数個の糖からなるN-結合型糖鎖を容易に導入できることを見出しました。これは現在に至るまで、N-結合型天然糖鎖を有する複合糖質の唯一の効率的・実用的な合成法です。
 1995年には旧通産省のプロジェクト「複合糖質生産利用技術の研究開発」においてバイオテクノロジー技術開発研究組合との共同研究(NEDOからの委託研究)「複合糖質分子設計技術の研究開発」として複合糖質のリモデリングを担当し、モデルとして糖鎖結合カルシトニンの合成を開始しました。開発した酵素法を駆使して、分子量数千に及ぶ大型糖鎖を付加したカルシトニンのmgスケールでの合成に世界に先駆け成功し、その諸物性、生理活性などの評価を行いました。このプロジェクトは2期6年間継続し、2001年3月に成功裏に終了しました。
 酵素による糖鎖の導入は、シクロデキストリンにGlcNAcを導入したものや、結合基質としてGlcNAcのみならずグルコース残基にも適用できることなどが見出され、応用範囲が広く、さらに本来の結合点アミノ酸であるAsnに限らず炭素数の一つ多いグルタミン(Gln)にも適用できることが判明し、新たな非天然型のN-結合型糖ペプチド類の創製を達成しました。(野口研究所時報 第40巻 P.50 1997)

6. Mptカップリング反応

 Mpt(ジメチルホスフィノチオイル)基が穏和な条件下では糖のヒドロキシ基とは反応しない性質を利用したカップリング法は、糖質化学の研究開始以来蓄積してきた研究所の固有技術です。グリコシル化反応のみならず、先述のAsnにGlcNAcが結合した基質自身や、酵素法でAsnに大きな糖鎖を導入した基質に、Asnを基点にペプチドを延長する際には、このMptカップリング法が有用であることを見出しました。すなわち、数多くの糖鎖を付加した基質を糖のヒドロキシ基を保護することなくその他の化合物に連結しうるので、反応選択の自由度が広がることとなります。この領域の仕事は、1)AsnとGlcNAcを結合するホスフィン法、2)GlcNAcに糖鎖を結合する酵素法、3)糖鎖を有するAsnからペプチド合成を行う試薬としてのMptカップリング法の3つの固有技術が組合わさって初めて成功したといえます。(野口研究所時報 第39号 P.32 1996)

7. 糖鎖タグ

 化学酵素法による複合糖質の合成では、天然のN-結合型糖鎖を合成基質のGlcNAc基に結合しますが、原料となる天然糖鎖は卵黄あるいは卵白からの糖タンパクを分解精製して得ます。そこで、さらにこの天然由来の糖タンパクを化学的に処理して酵素を使用せずに化学反応で基質に導入する方法の開発を試みました。すなわちN-結合型天然糖鎖の結合したAsnのアミノ基を封じカルボキシル基に活性化剤を結合することにより、アミノ基を有する、たとえばシクロデキストリンのような基質に容易に天然型糖鎖を導入する手法を確立しました。これらの技術によりペプチド、タンパク、脂質の枠をはずれた幅広い基質についての新規な複合糖質を合成することに成功しました。

8. 糖骨格のユニークな反応性とその利用

 1970年代後半に開始した「リニューアブル資源の化学工業原料への利用」に端を発した研究に、糖の単純反応による有用物質への変換があります。この反応の骨子は、糖分子の特徴である連続した炭素鎖に結合したヒドロキシ基の脱水によって起こる分子内の酸化還元と、閉環反応、転移反応などを原動力とし、従来の有機化学的予想では方向付けし得ないような化合物へ容易に誘導できる点にあります。
 簡単な単糖あるいはそのアセテート体から誘導した中間体を用いて、αピロン、シクロペンテノン、シクロペンタジオン、コマン酸、ベンゾキノン、ジメチルアミノフェノール誘導体、ピロール誘導体、含硫シクロペンタジエン、ペンテノマイシン、ジオキシシクロペンテノン、5-アミノレブリン酸などを単純なステップで合成しました。

2000年代

9. オリゴ糖のピレン標識化とMALDI-QIT-TOF MS解析

 糖鎖そのものは吸光や発光性の官能基を持たないので、その検出や定量解析を行うためには標識剤を結合する必要があります。そこで、糖鎖還元末端のアルデヒドに2-アミノピリジンを導入し、蛍光で検出したHPLC上の溶離位置によって同定を行う方法が汎用されていました。しかし、比較的容易な方法ではありますが、標準糖鎖との比較によって構造を推定するので、標準糖鎖と一致しないと構造がわかりません。より複雑な構造や微量で新規な構造を解析するためには高感度なMALDI-TOF MSを利用した測定方法の開発が必要であると考えました。ピレン誘導体を用いた独自の糖鎖標識法で調製したピレン標識糖鎖は蛍光強度が高く高感度であるのみならず、疎水性が高いことにより精製が容易であること、HPLC分離能が向上すること、ELISA、QCMや蛍光偏光解析などの分子間相互作用解析にも応用可能であり、様々な解析に使用できる次世代プローブという利点を持ちます。2003年に発足したNEDO糖鎖エンジニアリングプロジェクト・糖鎖構造解析技術開発に参加し、ピレン標識化を利用して人乳少糖の分離および構造解析技術の開発を行い、標準糖鎖の提供やMS解析を実施しました。その結果、ピレン標識糖鎖はMALDI-MSと相性がよく、イオン化が促進しそれまで困難であったNegative-ion MS解析が可能となり複雑なオリゴ糖異性体の構造解析法を開発することができました。これにより、分岐構造やフコース結合位置の異なる構造を有する50種以上のオリゴ糖を同定しました(野口研究所時報、第49号 P. 34 2006. 野口研究所時報、第46号 P.33 2003:特許第4262289号、特許第4295338号、特許第4808542号、特許第5331293号)。
 以上に述べたピレン標識による糖鎖構造解析法は生体試料の糖タンパク質糖鎖の解析にも応用され、バイオマーカー探索のための研究開発を実施することができました。例えば、2005年~JST独創的シーズ展開事業・大学発ベンチャー創出推進「新規前立腺癌診断法の研究開発」を推進し、2006年~NEDO「糖鎖機能利用技術開発」における「糖鎖マーカーの高効率的な修飾・精製・同定技術の開発に参加しました(野口研究所時報 第49号 P. 43 2006. 野口研究所時報 第51号 P. 61 2008)。

10. フルオラスを利用した糖鎖合成

 多くのフッ素が結合したフルオラス化合物は、水にも一般の有機溶剤にも混じりません。この性質を利用し、フルオラスタグを付けた原料を反応後フルオラス溶剤で回収することにより分離精製を容易にできます。このフルオラス合成法によりAGP由来の糖鎖やアミノグルコキシドの簡便かつ迅速な合成法に成功しました。また糖鎖合成には単糖ユニットが必要ですが、これらの合成には多大の時間と労力が必要です。フルオラス合成法を単糖ユニットに適用すると通常の有機合成にくらべ迅速に行えることが明らかになりました。フルオラス合成法は糖鎖合成の簡便かつ迅速な方法であるばかりでなく、フルオラスタグやフルオラス溶媒を容易に回収・再利用できるのでグリーンケミストリーでもあります(特許第6001267号)。2008年には東京大学の畑中研一先生をプロジェクトリーダーとするNEDO糖鎖機能活用技術開発に参加し、病原体除去を目的とした不織布にフルオラス相互作用で固定する糖鎖フィルターの開発も行いました(特許第5436093号)。
 また、フルオラス科学研究会の事務局として長年担当し当該分野の振興にも寄与しました(HP参照)。

11. 抗ピロリ菌特性を持つ糖鎖

 抗菌薬によるピロリ菌の除菌は広く普及していますが、耐性菌の出現の問題があり抗生物質以外の除菌法のニーズが高まっています。2006年から野口研究所は、Oーグルカンや単糖のαーGlcNAc誘導体の抗ピロリ菌特性を発見した信州大学の中山教授と共同でJSTの支援を受けた「ピロリ菌を増殖抑制させる糖鎖を含んだ機能性食品の開発」を行いました。天然食材からのαーGlcNAc誘導体の抽出は微量のため断念した一方、化学合成法によるαーGlcNAc誘導体を用いたin vitroの試験では増殖抑制効果を見出しました。スナネズミの餌にαーGlcNAc誘導体を混ぜた系でも効果が認められました。しかし経済性、合成品を食品として用いることの困難さからプロジェクトとしては中止となりました(野口研究所時報第52号 P.45 2009:特許第5383692号)。

12. MSによる糖ペプチドの高感度測定

 前述のとおり、遊離糖鎖をピレン標識すると高いシグナル強度が得られますが、糖鎖をタンパク質から切り出してしまうとタンパク質の情報や付加位置がわかりません。そこで、糖鎖を切り離さずにペプチドに結合したまま糖ペプチドで解析する方法を開発することを考え、JST先端計測分析技術・機器開発事業に応募し、2007年から島津製作所と共同で「ピレン誘導体化による超微量糖ペプチドMALDI-MS」の開発研究を行いました。
 オンプレート誘導体化技術等の開発により糖ペプチドの簡便な前処理法と高感度測定を実現できました。(糖ペプチド1fmolのMS検出、数10fmolのMS3)(特許第5478998号、特許第6125426号)。この方法を利用して、前立腺がん患者血清中の微量な前立腺特異抗原PSAの糖鎖構造を解析し、LacdiNAcを有する3本鎖糖鎖構造が付加したPSAを世界で初めて見出しました(特許第5443156号)。開発したオンプレート誘導体化により得られた測定資料は、糖ペプチドのイオン化を増強するだけでなく、夾雑するペプチドのイオン化を抑制するという予想外の画期的効果をもたらしました。また、スイートスポットの探索が容易であり、またマトリックの微小部分で特定の結晶構造が見いだされMALDIイオン化メカニズムに関して新しい知見が得られました(野口研究所時報第54号 P.52 2011;特許第4907334号)。

13. 糖鎖合成経路支援ソフトウェアの開発

 野口研究所では様々な有機化学的な糖鎖の合成方法を開発し、技術を蓄積してきました。これらの既存の糖鎖合成反応を組み合わせることで目的とする糖鎖を効率的に合成できると考えました。そこで、既存の糖鎖合成方法をコンピュータにデータとして集積し、そのデータを活用し目的とする糖鎖を得るための合成経路を提案するツールである糖鎖合成経路支援ソフトウェアの開発を東京大学船津公人教授との共同研究として実施しました。

2010年代

14. 糖鎖構造推定ソフトウェア

 オンプレートピレン標識およびNegative-MALDI-MS解析は実際に様々な糖ペプチド解析に有用でした。特に、Positive ionで同定が難しい異性体構造も確認できます。しかしNegative ion-MSデータが得られてもそのスペクトル中のフラグメントイオン一つ一つを同定しもとの構造を推定するのは時間と労力を費やします。そこで、引き続き5年間JSTの支援によってMSスペクトルによる糖鎖構造推定ソフトウェアGLIDEの開発を東北大学宮本明教授、高羽洋充准教授およびライフィクス株式会社金澤光洋社長と共同で行いました(2010年~JST産学インベーション加速事業 先端計測分析技術・機器開発「MSスペクトルから糖ペプチド構造を推定するソフトウェアの開発」、2013年~JST研究成果展開事業 先端計測分析技術・機器開発プログラム「MSスペクトルによる糖鎖構造推定ソフトウエアの製品化」)。(野口研究所時報第54号 P.52 2011:特許第6319716号)

15. LDI-MSプレートの開発

 MALDI-MSはピレン標識糖鎖の解析に優れていますが、均一なマトリックス結晶作成の制御は難しいためより再現性やスループットのよい方法としてマトリックスを用いないLDI-MSを応用することを考えました。次世代光変換材料であるメソポーラス有機シリカ作製技術をもつ豊田中央研究所と共同でLDI-MS用基板を開発することにしました。メソポーラス有機シリカは規則的な細孔構造を有し、有機基が細孔空間表面に均一に分布露出しているとされます。したがって、メソポーラス有機シリカがMS装置に搭載されたレーザー光を吸収しそのエネルギーを細孔に担持された測定分子に受け渡すことによってイオン化できる可能性があります。実際、数種の基板を作製し測定分子のイオン化を確認したところ、有機シリカの発光スペクトルと吸収スペクトルが重なる標識測定分子の場合にイオンが観察されました。一方、有機基を持たないメソポーラスシリカ(発光が弱い)や細孔が適切でないメソポーラス有機シリカ(測定分子が担持されない)ではシグナルがほとんど検出されませんでした。以上のことから、レーザー光によるメソポーラス有機シリカの発光に依存して測定分子の脱離イオン化が起こったと推定されました(野口研究所時報第59号 P.35 2016:特許第6108805号、特許第6908428号)。この発明により、測定が迅速簡便になるとともに、自動測定への応用も可能になります。

16. 均一な糖鎖構造をもつ糖タンパク質の合成技術

 2011年~HGP (Homogeneous GlycoProtein)プロジェクトを開始しました。細胞が合成する糖タンパク質の糖鎖は不均一で、様々な糖鎖構造をもつタンパク質の集合体となります。それぞれの糖鎖構造によってその糖タンパク質の生物活性が異なるので、医薬品として使用する場合は糖鎖の不均一性が問題となることがあります。特に、抗体医薬では特定の糖鎖構造が薬理活性や血中クリアランスに影響することが知られています。そこで、野口研究所では均一な糖鎖構造をもつ糖タンパク質の合成技術確立を進めるプロジェクトを研究部の技術を結集して進めました。まず、不均一な糖鎖構造を有する天然型抗体をエンドグリコシダーゼで処理し、糖鎖構造が均一なアクセプター抗体(GlcNAc-抗体またはFuc-GlcNAc-抗体)を作製します。得られたアクセプター抗体に均一構造の糖鎖オキサゾリンドナーをエンドグリコシダーゼ変異体(グライコシンターゼ)によって糖鎖転移反応を行います。それぞれの均一な糖鎖構造を有する抗体を用いてin vitroエフェクター活性(ADCC活性やCDC活性)評価を行った結果、糖鎖の種類と抗体の活性の相対比較が可能となり様々な知見が得られ、この成果は高く評価されています(野口研究所時報第58号 P.48 2015、第59号 P.22 2016、第60号 P.17およびP. 25 2017)。

17. 糖鎖リモデリングのツール

 HGPプロジェクトを推進する過程で様々な糖鎖リモデリングのツールやノウハウが蓄積されていきました。シアリルグリコペプチドSGPはヒト糖タンパク質に多く見られる2本鎖複合型糖鎖を持つ糖ペプチドで、糖鎖リモデリングのための原料として汎用されています。このSGPを鶏卵黄からより簡便な方法で高純度に調製する方法を旭化成と共同で開発し、この製法特許を使用した製品もF製薬所から販売されています(特許第5566226号)。
 また、糖鎖リモデリングに用いるエンドグリコシダーゼやグライコシンターゼには基質特異性があるので、目的の糖タンパク質および糖鎖構造に合わせて選択が重要です。最適な酵素や反応条件などのノウハウを蓄積し、さらに新規のグリコシンターゼの開発も行っています(特許第6744738号)。抗体医薬品においては前述のように、糖鎖が薬理活性に重要な影響を与えることが判明しているので、品質向上のために均一な糖鎖を有する抗体の作製に関心が持たれています。抗体薬物複合体の作製に関しても、アミノ酸に修飾するのでなく糖鎖を利用して部位特異的な薬物導入を行い、より均一な薬物/抗体比とすることが着目されつつあります。野口研究所で開発したツールがこのような糖タンパク質医薬品の改良に役立つと思われます。

18. インフラマソーム阻害剤の開発

 1,5-D-アンヒドロフルクトース(1,5-AF)がインフラマソーム形成を阻害する作用を有しており、慢性炎症や自己炎症性疾患などの予防や治療の効果が期待されていたが、医薬の有効成分としての有効性が不十分であることが明らかとなりました。我々は1,5-AFの構造中でインフラマソーム形成阻害の鍵となる部位がケトン基ではないかと推測しました。実際1,5-AFは水溶液中ではケトン基の大部分が水和されてジェミナルジオール構造となっている(=ケト体とジオール体の平衡がジオール側にかなり偏っている)ことが知られています。そこで我々はケト体が安定となるような分子構造の設計し合成を行いました。種々検討を行った結果、1,5-AFのケト基に隣接するヒドロキシ基を除去した化合物(3-deoxy体)のインフラマソーム形成阻害活性が1,5-AFの約17倍に向上することを見出しました。この3-deoxy体をエノン構造にすることでケト体の安定性を高めることができると考え様々なエノン型化合物を合成しインフラマソーム形成阻害活性を測定したところ3-deoxy体の100倍以上活性が向上することを見出しました(野口研究所時報第61号 P.26 2018、特許第6722895号)。この研究で合成した新規化合物は、慢性炎症や自己炎症性疾患などの医薬の成分、またはその基となる構造として有用であると考えています。

19. α-ジストログリカン のΟ-Man型合成機構解明のための化合物合成

 α-ジストログリカン(α-DG)はΟ-マンノース型糖鎖(Ο-Man型糖鎖)を介して細胞外のラミニンと結合することで細胞膜を安定化しています。このΟ-Man型糖鎖の異常は先天性筋ジストロフィー症や網膜色素変性症、筋眼脳病(MEB)を引き起こすことが知られています。野口研究所では1990年代後半から東京都健康長寿医療センターとα-DG のΟ-Man型糖鎖に関する共同研究を行っており、Ο-Man型糖鎖合成機構の解明のために必要なマンノシルペプチドやCDP-リビトールといった化合物の合成を行ってきました。最近では糖ヒドロキシ基の保護基としてtert-butyloxycarbonyl(Boc)基を用いる糖ペプチドの簡便な合成法を開発し(特許6605201号)、この手法を用いて様々なマンノシルペプチドの合成を行っております。
 研究の成果として、合成したマンノシルペプチドを基質として用いることで、新規糖転移酵素POMGnT1を発見し、この酵素が福山型筋ジストロフィーの一種であるMEB病の原因遺伝子の一つであることが明らかとなりました。また、CDP-リビトールを用いた研究によりMEB病の原因となる2種類の新規酵素を発見することができました。
 α-DGに関する研究は20年以上にわたる息の長い共同研究のテーマでありますが、いまだ未解明な課題があることから、現在も東京都健康長寿医療センターと共同研究を継続中である。また本研究は新たな生化学的知見の解明に対して野口研究所の合成技術が役にった例の1つであります。

20. 糖鎖科学研究の情報科学基盤の構築

 今日では、ライフサイエンスの研究にデータベースは不可欠なツールとなっています。糖鎖科学分野においても、2007年度後半から2010年度の文部科学省 統合データベースプロジェクト・補完課題として日本糖鎖科学統合データベース「JCGGDB」が産業技術総合研究所により開発されました。野口研究所においても糖鎖科学研究を支援することを目的としたデータベースとしてGlycoNAVIを開発しJCGGDBとの連携を実施しました。
 また、糖鎖科学において研究により産出された各種のデータの保存やそれらを利用するための情報科学基盤の整備は遅れており、データベースの統合化やデータを利用するためにもその必要性が議論されてきました。そこで他の研究機関と共同して、糖鎖科学における情報科学基盤の整備を行いました。具体的には、国内外に散在しているライフサイエンス分野のデータやデータベースの共有を促進し、自由に活用できるようにデータベースの統合化の実現を目的とした科学技術振興機構(JST)のライフサイエンス統合推進事業「統合化推進プログラム」が開始され、本事業に産業技術総合研究所、立命館大学、理化学研究所とともに応募し、「糖鎖統合データベースと研究支援ツールの開発」(2011〜2013年度)の研究を行いました。さらに、産業技術総合研究所、創価大学、新潟大学、立命館大学とともに、本事業の2期目に応募し、「糖鎖統合データベースおよび国際糖鎖構造リポジトリの開発」(2014〜2016年度)を行い、糖鎖構造の表記法であるWURCS、糖鎖構造に固有の識別子を付与するシステムである国際糖鎖構造リポジトリGlyTouCanなどを開発しました。そして、本事業の3期目は創価大学、新潟大学と共同で応募し、「糖鎖科学ポータルの構築」(2017〜2021年度)の研究を行い、糖鎖科学ポータルサイトGlyCosmosを開発しました。GlyCosmosは、糖鎖科学データのみではなく他領域のデータとの統合化も積極的に推進し、遺伝子、タンパク質、脂質など多様なデータとの統合を実現することができました。また、タンパク質との統合化においてはWorldwide PDB (wwPDB) の全拠点共通のデータ登録ウェブインターフェースであるwwPDB OneDep システムの開発を協働して実施し、PDBの標準データ形式に含まれる糖鎖データに、糖鎖構造表記法WURCSが標準で記載されるようになりました。

2020年以降

 研究テーマの加速化および深耕を目的として、2020年度よりこれまでの個人テーマでの研究体制からチーム研究体制に移行しました。具体的には、4つのチームを編成し、以下の4つのテーマに取り組んでいます。

Aチーム:糖タンパク質をターゲットにしたグライコミクス・グライコプロテオミクス解析の基盤技術開発
Bチーム:抗体の位置選択的な修飾による抗体薬物複合体の創製
Cチーム:ガレクチン-4を標的とした高転移性胃癌の治療に向けた研究
Dチーム:情報科学を活用した糖鎖科学基盤の開発研究

 詳細については、研究テーマのページを参照ください。