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 野口研究所における糖質研究のルーツは、第二次大戦終了後に開始した木材化学研究、1970年代に実施したバイオマス研究にあります。これらの研究をベースに、1986年に糖質合成の研究を「有機合成的手法による生理活性のある複合糖質の研究」へと方向付けました(野口研究所時報 第29号 P.5-7 1986)。すなわち、糖質が生体内で生命現象をつかさどるきわめて重要な物質でありながら、その特異な構造のために合成が難しい点に着目し、複雑な複合糖鎖の構築技術を研究所の固有技術として蓄積することを目指したのです。これは、今日の糖鎖バイオロジーの発展、糖鎖医薬などの応用分野への展開を見越したもので、先見性のある方向付けであったと自負しています。以下に野口研究所における糖質・糖鎖研究のこれまでのトピックスを振り返ってみます。


1980年代後半

1.シアル酸の合成
 単糖ながら生体内生命現象に深く関わりがあり、当時はその合成手段が未開発であったシアル酸の合成を視野に、まずその関連化合物である炭素の一つ少ないKDO(2-ケト-3-デオキシオクトン酸)の合成に成功しました。このテーマは、目的物であるシアル酸の生物的手法による試薬レベルの合成技術がその後開発されたため、KDOの合成で終了しましたが、この研究の過程で生み出された新反応は、a)立体選択的α、βヘテロ置換ビルディングブロックの構築、b)アラビノースからのフラノシド環の構築、c)糖ヌクレオシドの立体選択的合成、という大きなテーマに繋がりました。


2.スフィンゴシンおよび糖アスパラギンの合成法の開発
 複合糖質合成の基本は、糖とアグリコンの結合部の構築にあります。この新しい構築法の開発をターゲットとし、糖脂質の代表、スフィンゴ糖脂質の特徴的接合点であるスフィンゴシンの合成と、糖タンパク質の重要成分、N-結合型糖タンパク質の結合点である糖アスパラギンの合成を開始し、糖鎖構築の基本となるグリコシル化反応の開発を行いました。




1990年代前半

3.固相合成法による糖ペプチド合成技術の開発(旧科学技術庁「糖鎖の構造・機能解析のための共通基盤技術の開発に関する研究」プロジェクト)
 糖鎖工学は1980年代後半からポストゲノム時代の生化学分野のターゲットとして世界的に注目を浴び、日本では4省庁(旧科技、通産、文部、農水)の糖鎖工学プロジェクトが1990年に発足しました。野口研究所も、1991年にスタートした旧科学技術庁「糖鎖の構造・機能解析のための共通基盤技術の開発に関する研究」プロジェクトに6年間参加しました。
 このプロジェクトでは、アスパラギンで糖に結合しているN-結合型糖タンパク質の基本構造であるN-アセチルグルコサミン(GN)とアスパラギン(Asn)の結合部分を合成し、このAsn(GN)を基点にアミノ酸を順次連結して、GN1個を有する糖ペプチドを固相法で合成するテーマを担当しました。この研究において、アスパラギン酸とGNアジドを低温でホスフィンと反応させる効率的なAsn(GN)合成法の開発に成功しました。さらに、これらを活用して各種の生理活性ペプチドに糖を付加した化合物、すなわちhCGの部分構造のGN-ヘキサペプチド、ペプチドTのGN-オクタペプチドおよび32アミノ酸よりなるGNカルシトニン(CT)等の合成を行うと共に、糖鎖を付加したために起こる反応性の変化、酵素分解に対する抵抗性などを解明しました。このプロジェクトは1996年に高い最終評価を得て終了し、この仕事は後述の酵素法の開発によりペプチドに結合した1残基のGNにN-結合型の天然糖鎖を導入する方法に発展しました。


4.不斉選択的反応とキラルブロックの合成
 KDO合成の過程で生み出された合成技術は、医薬として重要な酵素阻害剤の基本骨格の構築に利用できるβ、γ不飽和ケトエステルからの立体選択的不斉合成でsyn-βアミノ-α-ヒドロキシ酸を合成するルートを確立しました。この反応を駆使してレニン阻害剤、アンジオテンシン変換酵素阻害剤の部分構造の合成に成功し、ノルスタチン、ロイヒスチンの全合成へと繋がりました。
 同様にKDO骨格を構築する段階で見出されたキラルなテトラヒドロフラン環構築法はこの骨格を持つ海洋天然物の合成に活用され、クマウシン、ローレネニン、ゴニオフフロンなどの全合成に繋がりました。さらに、この方法を応用するとデオキシヌクレオシドの合成が可能になることを見出し、一連のAZT(アジドチミジン:第一世代抗エイズ薬)類縁体の合成を行い、核酸塩基をβ選択的に糖に導入する分子内N-グリコシル化法を開発しました。合成した化合物を米国NIHの評価に供しました。(野口研究所時報 第41号 P.9-22 1998)




1990年代後半

5.化学酵素法による複合糖質の合成
 1994年に、従来の純合成的手法に加えて糖の多様な反応基点である水酸基の保護などを必要としない酵素法を糖ペプチドの合成に応用することとし、京都大学と共同研究を開始しました。その結果、先述のGN基を有するペプチドなどの基質に、保護基を導入することなく、6から10数個の糖からなるN-結合型糖鎖を容易に導入できることを見出しました。これは現在に至るまで、N-結合型天然糖鎖を有する複合糖質の唯一の効率的・実用的な合成法です。
 1995年には旧通産省のプロジェクト「複合糖質生産利用技術の研究開発」においてバイオテクノロジー技術開発研究組合との共同研究(NEDOからの委託研究)「複合糖質分子設計技術の研究開発」として複合糖質のリモデリングを担当し、モデルとして糖鎖結合カルシトニン(CT)の合成を開始しました。開発した酵素法を駆使して、分子量数千に及ぶ大型糖鎖を付加したCTのmgスケールでの合成に世界に先駆け成功し、その諸物性、生理活性などの評価を行いました。このプロジェクトは2期6年間継続し、2001年3月に成功裏に終了しました。
 酵素による糖鎖の導入は、シクロデキストリンにGNを導入したものや、結合基質としてグルコサミンのみならずグルコース残基にも適用できることなどが見出され、応用範囲が広く、さらに本来の結合点アミノ酸であるAsnに限らず炭素数の一つ多いグルタミン(Gln)にも適用できることが判明し、新たな非天然型のN-結合型糖ペプチド類の創製を達成しました。(野口研究所時報 第40巻 P.50-65 1997)


6.Mptカップリング反応
 Mpt(ジメチルホスフィノチオイル)基が穏和な条件下では糖の水酸基とは反応しない性質を利用したカップリング法は、糖質化学の研究開始以来蓄積してきた研究所の固有技術です。グリコシル化反応のみならず、先述のAsnにGNが結合した基質自身や、酵素法でAsnに大きな糖鎖を導入した基質に、Asnを基点にペプチドを延長する際には、このMptカップリング法が有用であることを見出しました。すなわち、数多くの糖鎖を付加した基質を糖の水酸基を保護することなくその他の化合物に連結しうるので、反応選択の自由度が広がることとなります。この領域の仕事は、1)AsnとGNを結合するホスフィン法、2)GNに糖鎖を結合する酵素法、3)糖鎖を有するAsnからペプチド合成を行う試薬としてのMptカップリング法の3つの固有技術が組合わさって初めて成功したといえます。(野口研究所時報 第39号 P.32-48 1996)


7.糖鎖タグ
 化学酵素法による複合糖質の合成では、天然のN-結合型糖鎖を合成基質のGN基に結合しますが、原料となる天然糖鎖は卵黄あるいは卵白からの糖タンパクを分解精製して得ます。そこで、さらにこの天然由来の糖タンパクを化学的に処理して酵素を使用せずに化学反応で基質に導入する方法の開発を試みました。すなわちN-結合型天然糖鎖の結合したAsnのアミノ基を封じカルボキシル基に活性化剤を結合することにより、アミノ基を有する、たとえばシクロデキストリンのような基質に容易に天然型糖鎖を導入する手法を確立しました。これらの技術によりペプチド、タンパク、脂質の枠をはずれた幅広い基質についての新規な複合糖質を合成することに成功しました。


8.糖骨格のユニークな反応性とその利用
 1970年代後半に開始した「リニューアブル資源の化学工業原料への利用」に端を発した研究に、糖の単純反応による有用物質への変換があります。この反応の骨子は、糖分子の特徴である連続した炭素鎖に結合した水酸基の脱水によって起こる分子内の酸化還元と、閉環反応、転移反応などを原動力とし、従来の有機化学的予想では方向付けし得ないような化合物へ容易に誘導できる点にあります。
 簡単な単糖あるいはそのアセテート体から誘導した中間体を用いて、αピロン、シクロペンテノン、シクロペンタジオン、コマン酸、ベンゾキノン、ジメチルアミノフェノール誘導体、ピロール誘導体、含硫シクロペンタジエン、ペンテノマイシン、ジオキシシクロペンテノン、5-アミノレブリン酸などを単純なステップで合成しました。




2000年代以降

9.フルオラスを利用した糖鎖合成
 多くのフッ素が結合したフルオラス化合物は、水にも一般の有機溶剤にも混じりません。 この性質を利用し、フルオラスタグを付けた原料を反応後フルオラス溶剤で回収することにより分離精製を容易にできます。 このフルオラス合成法によりAGP由来の糖鎖やアミノグルコキシドの簡便かつ迅速な合成法に成功しました。 また糖鎖合成には単糖ユニットが必要ですが、これらの合成には多大の時間と労力が必要です。 フルオラス合成法を単糖ユニットに適用すると通常の有機合成にくらべ迅速に行えることが明らかになりました。 フルオラス合成法は糖鎖合成の簡便かつ迅速な方法であるばかりでなく、フルオラスタグやフルオラス溶媒を容易に回収・再利用できるのでグリーンケミストリーでもあります。


10.抗ピロリ菌特性を持つ糖鎖
 抗菌薬によるピロリ菌の除菌は広く普及しているが、耐性菌の出現の問題があり抗生物質以外の除菌法のニーズが高い。 2006年から野口研究所は、Oーグルカンや単糖のαーGlcNAc誘導体の抗ピロリ菌特性を発見した信州大学の中山教授と共同で「ピロリ菌を増殖抑制させる糖鎖を含んだ機能性食品の開発」を行いました。 天然食材からのαーGlcNAc誘導体の抽出は微量のため断念した一方、化学合成法によるαーGlcNAc誘導体のin vitroの試験では増殖抑制効果を見出しました。 スナネズミの餌にαーGlcNAc誘導体を混ぜた系でも効果が認められました。 しかし経済性、合成品を食品として用いることの困難さからプロジェクトとしては中止となりました。
(JSTの支援を受けた信州大学との共同研究、野口研究所時報第52号 P45‐47 2009)


11.MSによる糖ペプチドの高感度測定
 遊離糖鎖をピレン標識すると高いシグナル強度が得られるが、糖ペプチドにそのまま応用するとイオン化効率が低く測定できません。 野口研究所は2007年から島津製作所と共同で「ピレン誘導体化による超微量糖ペプチドMALDI-MS」の研究を行いました。
 オンプレート誘導体化技術等の開発により糖ペプチドの高感度測定を実現できました。 (糖ペプチド1fmolのMS検出、数10fmolのMS3)。開発した技術はスイートスポットの探索が容易であり、またマトリックの微小部分で特定の結晶構造が見いだされイオン化メカニズムに関して新しい知見が得られました。
 (JST先端計測プロジェクト、野口研究所時報第54号 P52‐P53 2011)





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